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( サッカー日本代表フォルトゥナ・デュッセルドルフ )

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宇佐美貴史 takashi usami (takashi_usami39)
2019-ガンバ大阪
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宇佐美貴史のプロフィール

名前:宇佐美貴史(サッカー選手)
生年月日:1992年5月6日
出身地:京都府

“ガンバユース史上最高傑作”とも称される宇佐美貴史は、2009年、当時高校2年生という若さでプロ契約を交わし、ガンバ大阪のトップチームでプレーしていた。ガンバ大阪にはこれまでに稲本潤一、新井場徹、家長昭博も高校2年生という若さでトップチームでプレーしていた歴史があるが、この歳でプロ契約をしたというのは初めての選手だった。それほどにもサッカー選手としての未来を10代のころから期待されていた宇佐美貴史のサッカーとの出会いは、なんと1歳半のころ。3人兄弟の末っ子として生まれた宇佐美貴史は、先にサッカーを始めていた2人の兄たちの影響で、はいはいをし始めた1歳半のころにサッカーボールに触れ始めたという。ちなみに宇佐美貴史は2人の兄とそれぞれ、6歳と4歳ほど離れているが、少し歳の離れた兄たちからサッカーを学んでいたそうで、のちに長男はドリブラーとして、次男は野性的なストライカーとして地元の少年サッカー団で知られるようになり、三男の宇佐美貴史の天才的なサッカーの才能もあり、“宇佐美3兄弟”と呼ばれていたほどのサッカー兄弟だった。兄たちとサッカーを一緒にやることが当たり前になっていた幼少期、3歳になった宇佐美貴史は、1人でも公園に行ってボールを蹴るようになると、母親にオムツを渡したそうだ。その理由は、ボールを蹴るのに邪魔だったから。三男に「いらん」とオムツを渡された母親は、もちろん3人の息子たちを育てていた上で初めてのことだったため、「なんちゅう子や」と驚いたそうだ。
小学校に上がるよりも前、幼稚園生の年長のときに兄2人が入っていた地元の長岡京SSに入ると、小学校1年生のときには飛び級して小学校4年生のチームでプレー、小学校2年生のときには小学校5年生のチームでプレーをしていたのだ。そんななか、長岡京SSとして出場した大会で当時小学校2年生ながらもアシスト王を受賞する機会があり、その表彰式で「まだ2年生のこの子の名前を覚えておいてください」という紹介をされたという。

小学校時代からずば抜けたサッカーセンスを見せた宇佐美貴史は小学校5年生に上がった頃、地元で怖いものなどなかったのだが、そんな宇佐美貴史についていけなかった長岡京SSのチームメイトたちとの温度差があり、1人でボールを守ってゴールを決めてしまうようになると、チームで出ているにも関わらず“宇佐美FC”と呼ばれることもあったとか。その頃にはチームメイト7人にボールを奪わせずにGKの1人に向かってゴールする練習をするようになっていて、地元では有名なサッカーの“天才少年”と呼ばれる存在になっていたのだ。このころには宇佐美貴史の試合を見守る存在も出てきていたことから、宇佐美貴史の試合記録を残す人がいたそうで、実際宇佐美貴史が小学校4年生のころから小学校を卒業するまで毎年200点ほどの点数を取り、600点以上の記録を打ち出していたことが判明している。そしてその実力が買われ、2005年にガンバ大阪のジュニアユースへ入団すると、ここでもまた中学1年生ながらも3年生のチームに飛び級するという強さを見せた。そして同年6月に韓国で開催されたMBC国際ユース大会に、U-13日本ユース選抜として出場すると決勝戦で5人抜きドリブルを披露してみせたり、翌年の高円宮杯第18回全日本ユース選手権では10得点を獲得し、大会得点王となるなどで、ガンバ大阪ジュニアユースを初優勝に導いたのだ。
2007年、当時中学3年生だった宇佐美貴史は飛び級でガンバ大阪ユースへ昇格し、レギュラーの座を獲得。そして同年に行われた第31回日本クラブユースサッカー選手権にレギュラーとして出場してガンバ大阪ユースチームの優勝に貢献すると、翌年にはまだ高校1年生ながらも背番号10を背負うほど、ガンバ大阪ユースのエースとして多くの活躍で記録を残したのだ。そうして“ガンバユース史上最高傑作”と称された宇佐美貴史は、ガンバ大阪史上初となる高校2年生でのプロ契約に至り、プロサッカー選手としての道を歩むことになった。

ガンバ大阪での公式戦デビューは、プロとなった2009年5月。それまでガンバ大阪の史上最年少デビューは稲本潤一が保持していたのだが、17歳14日という新しい記録を宇佐美貴史は塗り替えることになった。華々しいJリーグデビューを飾った宇佐美貴史だが、その後は調子が整わずに出場機会に恵まれない時期を過ごす。そんななか主力選手のケガなどから出場機会が回ってきた2010年には、リーグ戦初得点をあげたことで感覚が戻ったのか、1シーズンで7得点を獲得して「高校生Jリーガーのシーズン最多得点を大きく更新したと同時に、Jリーグで放ったシュート数が日本人トップを記録したのだ。この功績が称えられ、ガンバ大阪のプレーヤーとして初めてJリーグベストヤングプレーヤー賞という新人王を受賞し、ガンバ大阪の選手とサポーターが選ぶシーズンMVPに選出されるほど、チームに貢献しJリーグに存在感を見せつけたシーズンとなった。
ガンバ大阪の主力選手として認められた2011年には、背番号が11番に変わったのだが、中盤のポジションがなかなか馴染めず得点につながらなかったことからスタメンを外されてしまうも、ここぞというときに魅せるのが天才宇佐美貴史。当時、日本代表の監督を務めていたアルベルト・ザッケローニ監督が視察に訪れた試合でそのシーズンの初得点を挙げて、日本代表入りをアピールしたのだ。すると同年6月にキリンカップに出場に向けたメンバーとして日本代表に初選出され、初めての代表合宿を経験することとなった。そして同じく6月にはドイツのトップリーグ、ブンデスリーガの名門チームであるバイエルン・ミュンヘンへの完全移籍オプション付きとなる、1年間の期限付き移籍が決まり、7月からは欧州リーグでプレーすることとなった。

2011年7月、宇佐美貴史はバイエルン・ミュンヘンへの移籍前のJリーグの試合で1得点1アシストを決め、ミュンヘンで堂々バイエルン・ミュンヘンへの加入会見を行った。宇佐美貴史にとってバイエルン・ミュンヘンでのデビュー戦は8月で、初得点を決めたのは10月のことだった。そして同年12月に行われたUEFAチャンピオンズリーググループリーグ最終戦に出場すると、日本人最年少出場を記録。その後もバイエルン・ミュンヘンでスタメンフル出場も経験するなど、爪痕を残したように見えたのだが、実際に宇佐美貴史がバイエルン・ミュンヘンに移籍して出場した試合はわずか5試合。やはり名門チーム、バイエルン・ミュンヘンではそのポジション争いに破れてしまい、バイエルン・ミュンヘンから完全移籍を提示されることはなく、1シーズンでバイエルン・ミュンヘンを去ることとなった。
バイエルン・ミュンヘンとの契約が切れる頃、同じくドイツのブンデスリーガのチーム,TSG1899ホッフェンハイムへの移籍が決まった。TSG1899ホッフェンハイムとの契約も、バイエルン・ミュンヘンと同じく完全移籍のオプション付きの1年間の期限付き契約だった。TSG1899ホッフェンハイム移籍後は、レギュラーとして起用されることが多かったものの、TSG1899ホッフェンハイム自体の成績は振るわず、シーズン内で監督交代が相次いだ影響で出番も減り、宇佐美貴史は思った成績が発揮されないまま、1シーズンでチームを去ることが決まってしまったのだ。ドイツ・ブンデスリーガという多くのサッカー選手が目指す環境でプレーする機会を得たもののバイエルン・ミュンヘンとも、TSG1899ホッフェンハイム完全移籍につながらなかった宇佐美貴史は、古巣のガンバ大阪へと戻ることになったのだ。

2年間、ブンデスリーガでプレーしてきた宇佐美貴史は、Jリーグ復帰後に早速得点を重ねるなど、当時J2に降格していたガンバ大阪の立ち上げに貢献。ガンバ大阪はJ2に降格した年にJ2優勝を果たし、見事J1への復帰を決めることとなったのだ。そして2014年からはポジションをFWに変更しさらなる活躍を、というときにケガをしてしまうなど、出場機会を逃すこともあったもののさまざまなシーンで活躍を見せ、9月に月間MVP賞に輝いた。そして同年のナビスコカップでは5得点というチーム最多の活躍で、ナビスコカップニューヒーロー賞を受賞するほどの調子の良さで、Jリーグでも大会得点王を獲得し、Jリーグベストイレブンを初受賞。ブンデスリーガから帰ってきた宇佐美貴史の活躍もあって、2014年のガンバ大阪はリーグ優勝を飾ったのだ。翌年も宇佐美貴史の活躍とガンバ大阪の勢いは止まることを知らず、スーパーカップを制覇。そして4月には月間MVPを獲得し、6月にはプロになってから自身初のハットトリックを決めるなどの活躍を見せると、2016年にドイツ・ブンデスリーガのチームへ移籍することが決まったのだ。
新たな移籍先となったのは、FCアウクスブルク。今回はバイエルン・ミュンヘンのときと違って、4年契約の完全移籍だった。ガンバ大阪で輝かしい成績を残し、日本代表としてもプレーする機会に恵まれていた宇佐美貴史の移籍は、移籍先の地元ドイツでも期待があったようだが、出場機会はあったもののなかなか得点につながらない苦しい機会が多かった宇佐美貴史に対し、地元のサポーターたちは期待を下回ったという厳しい評価をくだした。そんななか、2017年にブンデスリーガ2部のフォルトゥナ・デュッセルドルフへの期限付き移籍が発表され、宇佐美貴史はフォルトゥナ・デュッセルドルフへ移籍。移籍後からブンデスリーガ2部へと落ちてしまっているチームの勝利に貢献している。

移籍の影響もあってドイツと日本の生活を経験している宇佐美貴史だが、2011年に結婚している。宇佐美貴史の妻となったのは、女優やキャスターとして活動していた蘭だ。いまではサッカー選手の妻となっているものの、その美貌は折り紙付きで、以前ドラマに出演した際には「あの女将さん役のキレイな人は誰?」と話題になるほど。そんな未来の妻である蘭と宇佐美貴史は、なんと中学校の頃から付き合っていたそうだ。妻となった蘭は宇佐美貴史の1個上。そのため、中学校の卒業式では、宇佐美貴史はまだ卒業まで1年あるにも関わらず、先に卒業する蘭に第二ボタンを渡していたとか。幼馴染ということもあり、気心の知れた2人だったのだが、付き合いとなるとそう上手くはいかず、高校時代は離れていた時期も経験。それでも蘭との交際を諦められなかった宇佐美貴史は、ガンバ大阪とのプロ契約をきっかけに再度蘭にアプローチ。このころ蘭はタレント活動を始めていたものの、プロサッカー選手となった宇佐美貴史の彼女に戻ることとなったのだ。その後、バイエルン・ミュンヘンへの移籍が決まったのを機に蘭は宇佐美貴史の妻となり、2
人揃ってそれぞれのブログで結婚を発表したのだ。そして宇佐美貴史のサポートをと、通っていた成蹊大学を休業していっしょにドイツへ渡り、食生活のサポートだけでなく、メンタル面も支える良き妻として、いつも宇佐美貴史に寄り添っているそうだ。
2人の間には2015年に女児が誕生。大好きな妻との間に子どもが生まれたことから、宇佐美貴史の愛妻ぶりや子どもの溺愛ぶりが話題になるようになった。そして2017年12月には、妻・蘭の第二子妊娠を発表。宇佐美貴史は2人のパパになるようだ。幼少期から天才少年と呼ばれていた宇佐美貴史は、その天才さゆえにやんちゃな面もあったものの、長年付き添ってくれている妻の支えもあり、いつでもいい方向へ好転しているようだ。もちろん日本代表としての活躍も輝かしい宇佐美貴史は、ロシアワールドカップでの得点が大いに期待されている。